消えたトイレットペーパー

（公財）消費者教育支援センター専務理事・首席主任研究員　柿野　成美

新型コロナの影響で私たちは「日常」を大きく変化せざるをえない日々が続いている。朝起きて食事の支度をし、子供達が学校に遅れないように送り出し、自分も慌てて身支度を整えて出勤する。このような私の朝の日常は一瞬にして過去の出来事となり、自分と他者の生命を守るためのライフスタイルが続く。

当たり前と思っていたことが、次の瞬間に、当たり前にできなくなる。私たちはこれまで、このような経験をしたことがあっただろうか。「日常」は私たちに与えられた特権であるかのように、当然その先に続くものだと思いがちだ。私たちはその先に続くための努力を重ねたとしても、私たちの力が及ばない見えない恐怖が「日常」を変えていく。

3月のある日、トイレットペーパーが店頭から消えた、というニュースを見た。トイレットペーパーは国産のため在庫は十分にあり、不足することはないと伝えていた。しかし、実際にスーパーに行くと、棚には何一つ残っておらず、お詫びの紙が貼られているだけだった。1970年代後半のオイルショックの記憶はないが、なぜこのような光景が目に飛び込んでくるのか混乱し、いつか映像で見た場面に自分がタイムスリップしてしまったかのような錯覚に陥った。

多くの人は、トイレットペーパーがなくなるかもしれない、という恐怖に負けたのだ。先にマスクが市場から消えていたことも消費者心理に大きく働いただろう。恐怖は、冷静な判断能力を失わせる。おだやかな「日常」の中では起こりえないことが、現実に起きている。しかし、これはオイルショックとは違う。新型コロナウイルスによって生命の安全が脅かされている昨今、冷静な判断ができないことを誰が責めることができるだろう。賢い消費者と愚かな消費者の間に線引きし、いがみ合うのではなく、誰もが脆弱な立場に陥る可能性があること、その時に判断を誤る可能性があることを理解し、その対応策をともに検討することが重要なのではないか。

このような消費者の脆弱性を認めた上で、今一つ重要なことは、今回の消費者の行動は、本来必要である人の元にトイレットペーパーが届かなかったり、物流に混乱をもたらしたりする等、目に見えないマイナスの影響を与えていることに気付くべきである。消費者は「日常」の買い物において、自身の消費行動がどのような影響を与えているのか、考える機会を十分に持ってこなかったのではないか。私たちは脆弱な立場に陥ることもあるが、その一方で、問題に対する加害者になりうる立場にもあるのだ。

自立した消費者は、複数の情報をもとに比較考慮し、意思決定を行う。意思決定に当たっては、人や社会、環境等に配慮できているか、その影響を考えて選択する。これを「エシカル消費」と呼ぶ。非常時の消費者は断片的な情報を鵜呑みにし、断定的な判断を下してしまう。少し冷静になって考えてみれば、トイレットペーパーは手に入ると分かっていても、思考停止してしまうのだ。想像力が及ばないのである。

今回の経験から、私達の行動が他に与える影響力があることを、どのように身に付ければよいのか、という課題が明確に浮かび上がったと言える。ステイホームそのものが、自分の命を守る、他の人の命を守る行動として、新型コロナによって人々の価値観を変えたのかもしれないが、その結果はまだ分からない。

この先、他への影響力を理解する最も有力な方法として、商品の裏側で人権や動物福祉を侵害している事例、環境破壊につながっている事例をもとに、消費者が与える影響を考える、すなわちエシカル消費を題材とした効果的な教育プログラムを一層充実し、多くの機会に提供することであろう。つまり非常時ではなく、日常の生活において非常事態となっている事例を基に、他に与える影響を考えるトレーニングを行うのである。

非常事態を想像できたとしても、行動に結びつかないこともあるかもしれない。脆弱さが強調されて、自己中心的な買い物になってしまうかもしれない。それでも、私たちは生きている。生きている限り、消費者なのだ。

すぐに行くことができないお店を応援するためにクーポンを買うこともできる。マスク不足という課題解決のために新たにマスク生産を立ち上げた事業者を応援することもできる。医療従事者を応援し、新型コロナウイルスの感染拡大防止のために寄付をすることもできる。ステイホームを徹底して、他に感染を広げないという姿勢も重要だ。私たち消費者は、良い影響を与えることもできるし、加害者になることもある。今日から良い影響を与える消費者に変わることだってできるのだ。

私たちの「日常」を大きく変えた新型コロナウイルス。これは、消費者の持つ影響力をしっかり理解し、行動できる自立した消費者になるために、私たちに与えられた試練なのかもしれない。この非常時を支えてくださる多くの方々に心から感謝して、コラムを終えたい。