東京大学名誉教授 山本良一
いけばなは日本の代表的な伝統文化の一つであり、その流派は1700を数え、隆盛をほこっていると言ってもよいであろう。いけばなには仏前に供えられる供花や樹木の依代信仰のような仏教・神道の影響が認められる。日本人は花や樹木に対して仏に供える、神が宿るというように神聖なものとして向き合ってきた。立花を体系化した池坊専応口伝の中の「ただ小水尺樹をもって、江山数程の勝概をあらはし、暫時傾刻のあいだに千変万化の佳興をもよおす。あたかも仙家の妙術とも言いつべし」という文は川端康成の引用もあって大変有名である。池坊のホームページには「池坊は従来の挿花のように単に美しい花を愛でるだけではなく草木の風興をわきまえ、時には枯れた枝も用いながら、自然の姿を器の上に表現する」というように解説されている。その後、江戸時代に儒教の天地人、三才の理念による生花が体系化され、近代になって小原雲心が盛花を考案して小原流を、勅使河原蒼風が自由花を主張して草月流を創流した。
現代いけばなはこれらの歴史を踏まえて立花、生花、盛花、自由花のすべてが存在し、いけばなは花材を縦横に用いた抽象芸術、空間アートの観がある。2018年9月からホテル雅叙園東京の百段階段で57流派が集う盛大ないけばな展が開催されている。
ところで、いけばなを構成する花、自然、人間についての理解はこの半世紀に革命的に変化し、深化した。その根本的な観点は、宇宙・地球・生命・人間を宇宙年齢138億年の中の進化の歴史、ビッグヒストリーとして把握するということである。進化生物学者の長谷川政美氏によれば、ヒトとチンパンジーの共通祖先は600万年前、ヒトとゾウの共通祖先は9000万年前、ヒトとチョウの共通祖先は5億8千万年前、ヒトとキノコの共通祖先は12億年前、ヒトとシャクナゲの共通祖先は15億年前に生きていたのである。
人間の体に刻印された生物進化の歴史の証拠は、例えば背骨は6億年前のピカイアに、手は3億6千万年前のアカンソステガに、胎生は1億2千5百万年前のエオマイアに、目は3500万年前のカトピテクスに由来する。植物は20億年前に藻類として水中に出現し、5億年前にコケ類として陸上に進出、3億年前にシダ類に進化して全盛期を迎えた。その後2億5千万年前には裸子植物に進化して乾燥地帯に進出し、約2億年前の中世代ジュラ紀に被子植物が登場した。コケ植物2万種、シダ植物1万種、裸子植物800種に対して被子植物は24万種で陸上植物の約9割を占めている。最初の被子植物はゴンドワナ大陸西部(現在の南アメリカとアフリカ)の熱帯高地に始まったと考えられている。昨年、地球上に初めて咲いた花をパリ第11大学が再現して話題になった。花は葉から変化したという文豪ゲーテによる説があるが、花を作る遺伝子は今年になって初めて起源推定に成功している。日本の研究グループによりヒメツリガネゴケのMADS-box遺伝子が花器官の形成に寄与していることが明らかにされた。
私たちの太陽系が属する天の川銀河は宇宙誕生後、わずか10億年程で誕生し、2千億個の星からなる。宇宙には1千億個以上の銀河があると言われている。この宇宙自体は138億年前にビッグバンによって誕生し、70億年前より加速膨張している。宇宙の96%はなぞの物質やエネルギーからなっており、私たちが解明できたのはその4%に過ぎない。しかしこの1世紀の科学の進歩によって人類の宇宙、地球、生命の進化についての知見は飛躍的に高まった。
その重要な結論の1つは、私たちが生命の誕生と進化を許容する幸運な宇宙、奇跡の惑星に生きているという事実である。重力、電磁気力、強い力、弱い力の相互作用定数が現在の値より大き過ぎても、小さ過ぎても現在のような宇宙を形成することができない。相互作用定数がきわめて限られた範囲の値にない限り、宇宙は生命を誕生、進化させることができないのである。あたかも自然法則の基本定数は、生命の誕生と進化を許容するように微調整されているように見える。誠に不思議である。
その一つの説明は宇宙は無数にあり(多重宇宙)、知的生命が誕生・進化できる宇宙のみが実際に観測されるというものである。1000という数にはゼロが3つあるが、この無数の宇宙の数は超ひも理論によれば、何とゼロが500個もつくような巨大な数であるという。確たる実験的証拠はまだ無いが、私たちが幸運な宇宙に住んでいることはまぎれもない事実である。
さて、地球は30km/sの速さで太陽の周りを1年かけて回転している。地球と太陽の距離は1億5千万キロメートルで、近過ぎず、遠過ぎず(生命居住可能領域)、地球表面には水が存在し生命の誕生と進化に有利であった。
太陽系は天の川銀河の中心から2.6万光年の距離を240km/sの速さで2億年の周期で回転している。太陽系が誕生して46億年が経過したが、その間23周したことになる。天の川銀河自体はウミヘビ座の方向へ、600km/sの速度で疾走している。
天の川銀河の中心部にはブラックホールや活発な活動をする星々があり、一方、周辺部には生命を構成する多様な元素が存在しない。太陽系は銀河の中心から近過ぎず、遠過ぎずの生命の誕生と進化に有利な領域(銀河生命居住可能領域)で形成された。
実は太陽系の構造もシンプルで地球で原始的生命が誕生し長い時間をかけて進化するのに有利であった。太陽の周囲を惑星が同心円状に、ほぼ同じ平面を同じ方向に回転していて、この軌道は数十億年安定していたと考えられている。巨大惑星の木星が地球に代わって多くの隕石を吸収してくれた。地球には大きな月があるために地球の軌道傾斜角が長期間安定に保たれた。
地球の軌道の離心率は0.017でほとんど円軌道であり、太陽からの距離の変化が少なく生命存在に有利であった。太陽の質量についても、最も重い星は太陽質量の100倍もの質量をもち、最も軽い星は100分の1程度であり、星が放出するエネルギーが生命生存に適度であった。ただし地球に似た惑星は既に2千個程度発見されており、広大な宇宙には太陽系に本当に似た恒星系が存在する可能性はあるかも知れない。しかし以上の議論から地球が生命の誕生、進化に有利な奇跡の惑星であることが理解されるのである。
地球は誕生以来、火の玉地球、水惑星、陸と水の惑星、生命の惑星へと進化し、その後は生命と地球が相互に影響を及ぼし合いながら共進化してきた。原始的生命は地球誕生間もない40億年前に誕生した。しかし原始的生命から多細胞生物の誕生までに何と宇宙の歴史の1/4にあたる34億年もの歳月を要した。6億年前のカンブリア大爆発によって今日の動物のほぼすべての祖先が誕生した。その後、少なくとも5回の生物種大量絶滅を経て600万年前に人類の祖先が誕生した。私たちの直接の祖先ホモサピエンスが出現したのはやっと20万年前のことである。ホモ・サピエンスも7万年前のインドネシア・スマトラ島のトバ火山の大噴火による寒冷化の影響で人口は1万人程に減少したと推定されている。これを要するに私たち一人一人の存在に全宇宙が関与していると言っても過言ではないであろう。
私たちの体は60兆個の細胞と100兆個の細菌などからなることを考えるだけでも、細胞が1つだけの原始的生命からの人類への進化に34億年という途方もない時間がかかったことが理解されるのである。原始的生命の誕生、生命の暗号DNAの形成、光合成の開始、複雑な細胞の誕生、有性生殖の開始など生命進化の跳躍が続かなければ今日の人類の誕生は無いのである。また原始的生命から知的生命までの進化は一直線ではなく、様々な偶然が介在したことは、知的生命の出現がきわめて宇宙的に稀であることを示唆している。私たちには心があり、また愛、慈悲、良知があり、宇宙・地球・生命の進化の歴史を認識できる地球上では初めての生物である。宇宙的に見て地球ならびに複雑な生命の出現はきわめて稀であるという仮説はレア・アース仮説と呼ばれている。これまでの議論から地球に類似した惑星は宇宙に大量に存在するかもしれないが、複雑な生物、知的生命の存在はきわめて稀であると考えられるのである。銀河は密集して分布しているが、星の平均間隔は5光年程度と散らばっており、例え近傍に知的生命、地球外文明が存在したとしても交流するのは当面は物理的に困難である。少なくともこの半世紀にわたる電波観測によっては地球外知的生命の発する電波は観測されていない。
人類の存在にとって地球生態系(自然)は不可欠であるが、一方知的生命である人類を失えば自然は盲目となるのである。人類と自然は共に宇宙的に貴重であると言っても過言ではないであろう。
21世紀に入って人類文明の持続可能性が問題になっている。人間起源の温室効果ガスの大気中への大量放出による地球温暖化、金属などの枯渇性資源の大量消費と大量廃棄、環境破壊による生物種の大量絶滅はいずれも現在のみならず将来世代に巨大な負の遺産を残し取り返しのつかないものである。
人類文明が地球生命圏の運命を左右するほどの力を持ち始めた今、地質年代名を人類の時代を意味するアントロポセン(人新世)に変え、人類の地球生命圏の管理保全責任、地球スチュワードシップを明確にしようという運動が起こっている。
Vaclav Smilによれば人類の総重量はすべての動物の総重量の30%を占めるという。また家畜の重量は67%に達している。野生生物の重量は3%に過ぎない。一方、Jan Zalasiewiczらによればテクノスフェア(人工物)の総重量は30兆トンと評価され、これは人類の総重量より10万倍大きい。
Stanford大学のAnthony Barnoskyらは2012年にNatureに論文を投稿し、生態系のティッピング・ポイントが迫っていると説いた。すなわち人口増加、生息地の転換と分断化、エネルギーの生産と消費、気候変動により生物種の絶滅が加速しており、ある地点を過ぎると大量絶滅がおこる可能性があるというのである。既に地球の雪や氷に覆われていない土地の43%が農地・市街地に転換されている。人類は世界の純一次生産(NPP)の20~40%を支配し、森林伐採等の生息地の劣化によりNPP自体を減少させつつある。CO2の大量排出により、それを吸収する海洋が酸性化し、海洋生物に悪影響を与えつつある。2025年までに地表の土地の50%が状態変化すると予想され、その時の世界人口は82億人に達する見込である。この論文により事態を重く見たカリフォルニア州の知事、Jerry Brownの要請のより“21世紀における人類の生命維持システムの保全に関する科学的コンセンサス”がAnthony Barnoskyら500名程の科学者によってまとめられた。その要点は“今日の子供達が中年になる頃には、人類の繁栄と存在にとって不可欠な地球の生命維持システムは、このままのやり方を続ければ不可逆的にグローバルに劣化してしまうだろう”ということである。あと数十年でいけばなどころではなくなってしまうのである。
仏教には、
人身受け難し、今すでに受く 仏法聞き難し、今すでに聞く
この身今生に向かって度せずんば、更に何れの生に向かってかこの身を度せん
という言葉がある。これを現代的に表現すれば、無数の宇宙の中の生命の誕生と進化を許容する幸運な宇宙の奇跡の惑星、地球に生命が誕生し、驚天動地の激しい進化の結果、知性と愛や慈悲心を持つ生物、人類が誕生した。人間として生まれたからにはこの事を深く認識し、自然と調和する持続可能なエコ文明を実現しなければならない。
ビッグバンからアントロポセンまでの138億年のタイムスケールの中で宇宙、地球、生命、人間のビッグヒストリーを捉え、人類文明の持続可能発展を考えることが重要である。日本の伝統文化、いけばなもその例外ではない。
「花が自然に備えている個性を見極め、器の中にその美を再構築する」とういのがいけばなの構成論であるなら、花の個性を進化史、文化史の文脈で捉え、アントロポセン(人新世)を生きるわが身を思い、奇跡の地球への賛美と地球スチュワードシップへの誓約を込めていけばなの創作をなすべきであろう。したがって21世紀においてはビッグヒストリーの背景のある物語性のあるいけばな「歴史花」が登場すべきではなかろうか。
以下に筆者の考える「歴史花」の事例を挙げてみよう。
- 植物の進化の歴史が背景にあるいけばな
コケ、シダ、裸子植物、原始的な花、進化した花などを花材として用いる。
- 東ゴンドワナ大陸由来の花々によるいけばな
ミツガシワ、キク、アルセウオスミア、フェリネ、キキョウなど
- 西ゴンドワナ大陸由来の初期の花々によるいけばな
モクレン、スイレン、タイサンボクなど
- 地中海気候が原産地の花々によるいけばな
ゲッケイジュ、オリーブ、キンギョソウ、ヤグルマギク、チューリップ、スイセンなど
- 花の進化史が背景にあるいけばな
裸子植物から被子植物へ、単子葉から双子葉へ、離弁花から合弁花へ
- 奈良、平安時代の人々の愛でた花々からなるいけばな
梅、菊、ボタン、シャクヤク、アサガオ、シモクレン、ケイトウ、ジュズダマ
このように「歴史花」は自由花の一種としてその空間アートとしての評価とその物語性が評価の対象となろう。更に花材の生産、流通において環境配慮、人権配慮がなされていなければならない。エシカル調達、サステナブル調達をいけばな作家はする必要があるのである。2020年に東京オリンピック、パラリンピックを開催するにあたって伝統文化いけばなを一層海外にアピールするためにも「歴史花」は重要と思うがいかがであろうか。前衛的な「歴史花」を創作する現代の小原雲心や勅使河原蒼風はいないものだろうか。